Interview with Carlo Forlivesi

 

 

Semiotic liaisons

 

記者:Makis Solomos音楽学、モンペリエ大学)

記事掲載:Carnet de Bord / The Logbook

このインタヴューは2004年7月フランス、ムーランダンデで開催された第3回国際若手作曲家フォーラム(フランス文化庁主催ヨーロッパ委員会文化2000プログラムの一環)で行われた。

 

 

- あなたの作品を聴くと、あなたがスタイリスティックなカメレオンだという印象を受けます。例えば、琵琶のための新曲(2002-2004) は日本的であり、泉鏡花の三つの叙情詩 (2003)はマーラーを思わせ、レクイエム(1999) は時々バッハを呼び起こします。この傾向をどう説明されますか?これはあなたのパーソナリティーの特徴なのですか?

 

カルロ・フォルリヴェジ(以下CF 確かに私の特徴と言えます。変化が好きで、繰り返しは好みません。他の人々がすることに大変興味もあリ、それが問題でもあるのです。基本的に彼等がするように私もしたいのですが、それは禁じています。何故なら私独自の方法を見つけなければならないからです。私の美的感覚は形式におさまりません。一定の方式を持たず、むしろその方式の性質を変えることで成り立っています。しかし、方式がなければ、変化させることもできません。ブーレーズのような、理論を発展させる作曲家に好感を持ちますが、最も興味深いのはそれらの作曲家を自分の中でどう融合して取り入れるかです。お互いに何の共通性もない作曲家同士を一つにまとめあげることが好きです。

 

- それでもなおあなたの音楽は、一つの作品にスタイルを融合するポストモダンの枠組みにもおさまらない。むしろもう一人のスタイリスティックカメレオンと言えるストラヴィンスキーの遊び心に富んだ一面に近い気がします。

 

CF 確かに私には遊び好きな一面があると言えます。というのも私は非常に飽き易いという事実から説明できます。ある種の文化的に閉ざされた空間を嫌います。例えば、同じ場所に長く住む事に耐えられません。

 

- それでもあなたは日本に三年間も住んでいました。

 

CF はい。でもその間度々ヨーロッパに戻りました。イタリア、ドイツ、フランス、オランダ等。日本国内でさえ何度も旅行をしました。それは音楽のためではありません。たびたび陶芸家の作品を鑑賞するために西日本を訪れました。ある陶芸家は私が作曲家だと知ると大変驚きました。同様に考古学も好きです。けれどもこれらの興味を私は自分の音楽の中には組み入れません。

 

- あなたは先日ムーランダンデで行われたスピーチの中で、異なった文化に自分を置くために日本では従弟期間の経験を余儀なくされた、また困惑させられたと発言しておられました。

 

CF 結果を出す為にはどのように謙虚にならないといけないかを学びました。時々日本人がよく言うように「私は何にも知らないので説明して下さい。」と言えるようにならねばなりません。事実、時々彼等は思う以上に物事を理解している事に気付きます。文化的、人間的謙遜は、受け身的な学び方でなく能動的な性質をもつヨーロッパ人にとって理解しがたいものです。しかし日本ではその性質を抑えねばならなく、それが屈辱的に感じられました。年令やこれまでのヨーロッパでの経験、数々の受賞のことを忘れ、私は再び一から学生のように勉強しなければなりませんでした。

 

- ヨーロッパには存在しない何かを日本で発見しましたか。

 

CF 何よりもとりわけ、「完璧」に対する強迫観念的傾向。物事はベストな状態で仕上げられなければならない。例えば、エレクトロニクスの曲ではグリッサンドの音質は完璧でないといけない。日本では結果ではなく、物事に対する接し方や態度を大切にする面があるのも確かです。茶道がそうです。ほんの少しのお茶を数秒で飲むのに、彼等は長い時間をかけて準備します。儀式がとても重要とされるところが私は好きです。ワーグナー的コンセプトにも見られる精選された瞬間です。このような物の見方は、時として重すぎますが。その他にも色々私を驚かせる点がありますが、それらが私の探究心をかきたてます。過去にも好みでない音楽をなぜそれが好きでないのかを理解するために調べあげことが度々ありました。そのような音楽が好みの音楽よりある意味もっと興味をそそるのです。初めて琵琶の曲を聴いた時その遅さと極度に儀式的なところに嫌悪を抱きました。また琵琶の演奏家が彼等の楽器や魅力的世界、奏法について全く説明せず、他と相容れない点も不快でした。しかしその姿勢が私自身の芸術的コンセプトとなったのです。芸術家には使命があると思います。芸術家はたとえ聴衆がいなくとも彼の芸術を実践しなければならない。このコンセプトは宗教と宿命的観念と明らかな繋がりがあります。私には宿命があります。私の音楽を世界中の人々に知ってもらう事です。成功する可能性もあるし、しないかも知れませんがね。

 

- あなたは儀式性等の日本音楽の特徴をあげましたが、その他に日本で音楽的に興味深いことは何ですか。

 

CF 西洋音楽に対するある種のこうごうしい態度です。ヨーロッパでは排除によって調性を征服することを達成します。調性のある音楽にはそれを避ける以外に方法がない重さがあります。日本では調性のある音楽がないので、それを拒絶する必要もない。調性は約百年前に日本にもたらされました。人々はソナタやコンチェルトを書きましたが、西洋の音律に調律されない邦楽器のために書いたので、結果として「日本流」になったのです。例えば、琵琶を平均律で調律することは不可能です。ハ長調の和音は決してハ長調の響きをもたらさないし、ドミソはかなり違うので異なった種類の音楽を生み出してしまう。

 

- どうして特に琵琶に惹かれるのですか?

 

CF 琵琶は日本に千年以上存在し続けています。私が使用する琵琶は比較的新しいものです。武満徹もこの種の琵琶を用いました。琵琶に関連した主題は私にとっても重要です幽霊話、夜や未知の世界の神秘性について等- それらはとても興味をそそります。私は見えない物を見たいのです。古代ギリシャ思想の面影ですね!たとえ理解できなくても物事を探究しなくてはならない。理解すればするほど、理解できないということを実感する、フランス人の言う‘mise en abîme’、終わりのない状況ですね。それが私の美的感覚の神経的な面と一致していて、またそれは遊び好きな一面- これが私が気が狂うことから幸いにもさまたげてくれるのですが- と対抗しあいます。この繰り返しは完璧という概念と結びつきます。ある事を知るために絶えず働き続け、最後にはそれについて何にもわかっていないという事実に気付いて終わる。ディノ・ブッツァーティがこう言っています。日本に来て初めの一週間で、あなたは日本がわかったと思う。一ヶ月後、自分がなんて無知だったかに気付く。二、三年後、あなたはこういう「日本を理解する事は不可能だ」と、、、日本人や琵琶は共感することによりのみ理解することができます。言葉や表現でなく感情で理解するよう心掛けないといけません。事実、日本人を質問攻めにするのは無礼に思われがちです。逆に共感することは、気配りと同義の優れた行為なのです。演奏家が私の琵琶のための曲を弾く時、彼等は音符についてではなくどのような態度でひけば良いかを尋ねました。音符はその次なのです。これは私の姿勢でもあります。私の音楽で取り分け大事なことは、もととなるものに根付いたコンセプトやイメージなのです。度々私は演奏家に私が何を表現したいのか理解を求めます。私の音楽は私が表現したいことが演奏家に正確に伝わった時にのみうまく作用します。

 

- コンセプトやイメージとしてあなたの音楽を聴くには、いわば楽譜と共に実際に聴く前に、感情移入することなんですね。

 

CF その通りです。だから私は書かれたことの奥を読み取れる日本人と働くことが好きなのです。

 

- あなたの音楽を実際に聴いたことのない人は、あなたの音楽に何を読み取れるのでしょうか。あなたのパーソナリティーですか?

 

CF はい。その通りです。日本では現役の芸術家は個性を持つことを求められます。すでに他界した芸術家に関しては伝統が引き継いでくれます。例えば、日本人が武満徹について語る時、彼等はまず彼の個性の重要性を主張します。それから彼の音楽について好きだとか嫌いだとか意見を言います。最後に武満の個性は特に驚くべきものだと繰り返すでしょう。ですから巨匠になるには後世に残るくらい強い個性を持たなければならないのです。

 

- このことがあなたをカメレオンたらしめているのかも知れませんね。

 

CF ある意味ではそうです。

 

- アンサンブル・アレフのための作品Nachtlied – Fragmente は、琵琶のための新曲の第四楽章がもとになっていますね。それを編曲と呼べますか。

 

CF 編曲というよりむしろ再作曲です。琵琶で簡単にできることが西洋の楽器では難しかったりその逆もあります。再作曲はその音楽の源に横たわるイメージを再現するために戻ることを意味します。イメージはその過程で時々変化することもあります。それはイタリア語や日本語で詩を考える作業に似ています。

 

- では翻訳と言えるのですか。

 

CF いいえ。というのも再作曲する時、私は翻訳家ではなく詩人だからです。私は初めのアイデアを知っています。もし私がブーレーズの曲を他の形に編曲したら、翻訳と言えるでしょう。Nachtlied– Fragmenteでは琵琶の曲のいくつかのアイデアを保っていますが同様の結果を得るためにいくつかの他の点を修正しています。

 

-Nachtlied – Fragmenteにおいて、琵琶に最も近い楽器はチェロだと言えますか。

 

CF ある意味ではそうです。チェロのいくつかの箇所は琵琶にインスパイアされています。2003年ベンジャミン・カラのためにチェロソロの作品Piùmestoを書きました。作品の後半は彼が使わねばならない論理や技術、時間の感覚に大変驚かされます。それは単に最も進んだ技術を使うという問題ではなく、チェロで普段得られる結果とは大変異なった結果を得ることを目的にしています。事実それはとても面白い試みでした。ヨーロッパでは自分達が発展させた伝統の概念の観点から「最も進んだ」技術と定義します。私の場合、ヨーロッパの伝統に根ざさないものが総てなのです。Nachtlied– Fragmenteでは琵琶のいくつかのモードがとても激しかったり穏やかだったりし、チェロの性質によく合います。また置換えやノイズも使います。そのためチェロは記号的掛け橋あるいは連結の役目を果たすのです。

 

-Nachtlied – Fragmenteのテンポの非常に遅い点に圧倒されました。4分音符のテンポが18!クセナキスの後期の作品では大変遅いテンポを使いますが、8部音符や16部音符に関してさえ、メトロノームの基準を用います。なぜあなたは8部音符をベースにして書かないのですか?

 

CF クセナキス流の考え方ではとても遅いテンポは単にとても遅いテンポなのです。私の場合は、もちろん演奏家は作品を8部音符で読みますが、結果は時間を測定する意味では正確なテンポではあってはならないのです。私はそれを呼吸とよびます。呼吸は決して遅すぎず早すぎもしません。初め私はテンポとは表示したくなく、単に「非常に遅く」と記していました。しかし私達にとって「非常に遅く」とは私の思っているような遅さではないのです。そこで私は演奏家にこれはただ単にゆっくりさせると言う問題ではないということを印象づけるためにメトロノーム基準を設けました。このように考えると心理的にまた音響的に音やアーティキュレーション、アタックの質が急激に変わるのです。私の作品ではリゲティがいうように雲の中に時計があります。それはいわば静的な文脈に現れる大変正確な要素です。音楽的に私の求めていることに関して時間は支配されないと言えるでしょう。

 

-Nachtlied – Fragmenteにおいて非常な遅さといくつかの沈黙が観客に混乱を与えないために、特別な音響セティングや電気による増幅の必要性はないのでしょうか。長い間振動する開いた弦を時々ひく事もチェロの役割ではないのでしょうか。

 

CF 琵琶の曲で重要なことは弦を打ったあとに来る余韻なのです。弦を打つことはまさにエネルギーを与える瞬間です。そのあと、その余韻の性質かすかなグリッサンド、あるいは聞こえにくい他の要素をどう使うかが大変重要です。伝統的に琵琶は小さい部屋で弾かれてきました。今日ではマイクが使われています。私の曲には大変細い音要素があり、聴衆はそれらを聞き取る為に近寄らねばなりません。しかしマイクは必要ありません。それを理想の追求と呼ぶかも知れません。聴衆は聴こうと努力することを求められ、耳をすまさねばなりません。音は追求されねばならなく、ただ受け身的に聴いていてはいけないのです。それを聴く為に自分自身を疲れさせねばならず、努力することが求められているのです。